6月の日系カナダ人の歴史

日系カナダ人の歴史おける6月のハイライト

NAJC前会長  ロリーン・及川

2023年、全カナダ日系人協会(NAJC)は、1941年から1949年までの期間、各月の日付のハイライトを見直すことにしました。特に政府の行動と日系カナダ人への影響の大きかった出来事を記述します。

1942年

6月10日

「BC州サンドンに日系カナダ人の第一陣70人が列車で到着しました。列車を降り、スーツケースの上に座り、”ああ、神よ、なんという所でしょう!神よ、まったくなんという所でしょう” と反抗と落胆の涙を流した。」 ケン・アダチ「存在しなかった敵

 

19世紀後半の鉱山の最盛期には、サンドンには28の酒場と29のホテルがあり、5,000人から10,000人を超える人口を抱え、北米のモンテカルロと呼ばれました。しかし、20世紀初頭には鉱業が衰退し、1942年に日系カナダ人の抑留・強制収容所に指定された頃には、50人ほどの住民と廃墟と化した建物が並ぶゴーストタウンになっていました。サンドンは、厳しい冬と山奥の環境のため、結局最初に閉鎖された収容所となり、ここの日系カナダ人はニューデンバーなど他の場所に移されました。

 

6月16日

連邦労働大臣ハンフリー・ミッチェルは連邦議会下院で、ウィリアムズレイク、エドモントン、セント・アルバータ(アルバータ州)、エルクホーン(マニトバ州)のインディアン寄宿学校に最大で7,500人の女性と子供が収容できると述べました。連邦政府は、家族を分離し、男性や青年を道路キャンプで働かせ、女性と子供は置き去りにされていたのです。この2週間後、ミッチェルは、BC州保安委員会が独自の計画を進めているため、インディアン寄宿学校を利用する計画を中止することを発表しました。

 

これは単に政府の意向が変わっただけではないのでした。あまり知られていないことですが、日系カナダ人社会が同じ考えを持つ均質な集団ではないことを示す出来事が起きていました。別に驚くことではないのですが、日系カナダ人社会には世代間の違いがありました。ほとんどの日系カナダ人は政府からの命令に従いましたが、中には従わない人もいました。

 

 

事件は4月の早い時期から起こり始めました。パウエル街の日本人街で「賭博王」として有名な森井悦治は、RCMPと関係があり、BC州保安委員会から日系カナダ人の強制収容を支援するために選ばれました。森井は日系カナダ人社会の利益を代表しておらず、日系カナダ人男性を夜中にRCMPに出頭させ、道路収容所に送らせるなど、彼の権威的な行動については多くのエピソードがあります。森井に対する反対運動も大きくなり、日本人伐採製材労働者組合を含む38の団体の代表が、帰化日系カナダ人会(通称は帰化人会)を結成しました。全カナダ日系カナダ人市民連盟は全カナダ日系人市民会議(JCCC)を53の日系カナダ人二世(グループの代表者とともに結成しました。両団体は森井の日系カナダ人とBC州保安委員会の連絡係としての役割の解任を望みました。このため森井は権力を失いましたが、連邦政府は日系カナダ人からの森井に変わるいかなる提案も拒否しました。

 

 

多くの帰化人会のリーダーたちは、家族を守るために、クリスティーナ・レーク、ブリッジ・リバー、リルエット、マックギリブレイ・フォールズ、ミント・シティといった、政府が自立キャンプと呼ぶ場所に移住したり、砂糖大根農場に行ったりして、政府の提案に従いました。政府は、すべての日系カナダ人の財産や持ち物を安全に保管するという約束を破り、日系カナダ人の抑留・収容の費用を支払うために、所有者の許可なく全て売却しました。結局、日系カナダ人は収容費用を自分たちで払うことになりました。このことを考えると、いくつかの限られたキャンプだけを自立キャンプと呼ぶのは適切ではないように思われます。

 

JCCCは、日系カナダ人が一般市民や政府から支持されるためには、協力する必要があると考えました。JCCCのメンバーで政府の政策に反対するものは、フジカズ・タナカとロバート・Y・シモダの指導の下に二世集団移動グループ(NMEG)を結成しました。NMEGは、BC保安委員会に対し、家族の分断を止めるよう要求しましたが、日系カナダ人の強制移動には反対しませんでした。

 

 

日系カナダ人の男性の中には、家族を置き去りにして道路キャンプに行けという命令に従わなかった者もいました。6月初めになっても、女性や子供はまだ内陸部の抑留・収容所に移動していました。そして道路キャンプ行きを拒否して、RCMPに出頭しない男性、約500人はまだバンクーバーに残っていました。

 

6月2日、NMEGは記者会見を開き、BC州保安委員会が家族を引き離すのではなく、一緒に移動することを検討すれば、現在の行き詰まり状況を打開すること強調しました。この記者会見を提案したのは、NMEG指導部の顧問であったジタロウ・チャーリー・タナカで、彼はジュネーブ条約に基づいてカナダにいる日本人の人権を守るために任命されたスペイン領事への助言という重要な役割を担っていました。彼はBC州保安委員会ともつながりがあり、家族一緒の移動を検討し、道路建設キャンプの既婚男性に内陸部の小さな町に日系人のための宿泊施設を準備、建設させるように要請しました。

 

一方、道路建設キャンプにいる日系カナダ人の男性や青年たちは、ヘイスティングス・パークの惨状を聞き、そこに残された家族のことを心配していました。RCMPがそれぞれの道路建設キャンプに派遣されていて、RCMPの存在は、カナダ人が日系カナダ人を信用していないという疑念を裏付けるものでした。道路建設キャンプでは動揺が広がっていました。仕事のスローダウンやストライキを始める者もいました。1942年6月中旬には、3回のストライキがあり、道路建設キャンプでの仕事は停止しました。

 

BC州保安委員会の担当者はオタワに行き、道路建設キャンプの動揺を止めるために家族の再統合を働きかけました。6月30日にBC州保安委員会の代表がNMEGの指導者と会い、道路建設キャンプのストライキを止める条件を提示するよう求めました。翌日、BC州保安委員会は、独身男性は道路建設キャンプで働き続けなければならないという一点を除いて、NMEGの提出した条件に同意しまし1946た。NMEGもしぶしぶ同意しました。

1946年

 629 内閣令P.C.5523により、連邦政府兵士再配置局長に、没収された日系カナダ人の農場を売買または賃貸する権限が与えられました。その結果、572の日系カナダ人農場が所有者に相談することなく、連邦政府兵士再配置局に売却されました。その後、農場はカナダ軍の退役軍人に安く売却されました。ゼンノスケ・イノウエは第一次世界大戦の退役軍人であり、カナダのために尽くしましたが、他の日系カナダ人と同様に強制移動させられ、農場を売却され、収容所に入れられたのは歴史の皮肉でした。

 

1946年

 6月、退役軍人土地法管理局への日系カナダ人財産の一括売却の一部であった65の農場が、退役軍人土地法管理局が提示した価格の平均2倍の価格で民間バイヤーに売却されました。

 

1948年

615 ドミニオン選挙法を改正する法案C-138が可決され、ブリティッシュ・コロンビア州の日系カナダ人に連邦参政権が付与されました。しかし、1949年まで日系カナダ人は州や市町村の選挙で投票することができませんでした。

 

 

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