2022年10月のNAJCメッセージ

新しいNAJC全国理事会へようこそ。 2022年9月23日に開催されたNAJC年次総会で、新しい全国理事会の名簿が満場一致で承認されました。新理事会の構成は次のとおりです。

会長:レス・コジマ
セクレタリー:ナオミ・カツミ

理事:マリカ・オマツ
理事:ジュディ・ハナザワ
理事:ユカリ・ピアレス
理事:アレックス・オクダ=レイフューズ
理事:スザン・タバタ
前会長: ロリン・オイカワ

スタッフ:専務理事:ケビン・オカベ

全国理事会はカナダ全土の日系カナダ人コミュニティを支援するための活動を続けていきます。NAJCは皆様とのコミュニケーションをThe Bulletin, Nikkei Voice, NAJC ウェブサイト(najc.ca)、 e-news (登録https://najc.ca/subscribe/ から) 、ソーシャル・メディアなど様々なチャンネルを通して継続します。

 

10月18日 はカナダの「人々の日」 NAJC前会長 ロリン・オイカワ

10月18日はカナダの「人々の日(Persons Day)パーソンズ・デイ」ですhttps://bit.ly/3yCBg85 。2022 年はカナダにおける女性史月間にあたり、 30 周年を迎えます。この記念日は普段は歴史書やカナダの物語に反映されていない女性の物語を探し出す一つの機会となります。パーソンズ・デイは1929 年に行われた歴史的な決定を記念するもので、この日に「Persons(パーソンズ)」の法的定義に女性が含まれることになりました。ただし、全ての女性が含まれたわけではありません。

5人のカナダ人女性のグループである 「The Famous Five(有名な五人)フェイマス・ファイブ」 https://bit.ly/3CPfpwP は当時カナダを統治していた「英領北アメリカ法 The British North America Act(BNA)」 の person の定義に異議を唱えました。BNA法ではpersons(複数形)とhe(男性単数形代名詞)が使われており、これは女性が法の下でpersonsとして認められていないことを意味すると主張する者もいました。この議論は、女性が裁判官や上院議員に任命されるのを阻むために使われました。フェイマス・ファイブは、personsの法的定義に異議を唱えるため、カナダの最高裁判所へ提訴しました。最高裁の判決はフェイマス・ファイブに有利なものではありませんでしたが、フェイマス・ファイブはカナダの最高上訴裁判所(当時はロンドンにあるイギリス枢密院の司法委員会)に法廷闘争を持ち込みました。

1929年の判決は、イギリスの大法官によって発表されました。
「すべての公職から女性を排除することは、われわれよりも野蛮な時代の遺物である。そして、なぜ personsという言葉に女性が含まれなければならないのかと問う人々に対して、明白な答えは、なぜ含まれてはならないのかということである。」

これは男女平等思想の勝利でした。しかし、この女性にはまだファースト・ネーションズやイヌイットの女性、アジア系の女性は含まれず、18〜33年後まで投票権などの権利を得ることはできませんでした。

1908年、バンクーバーに生まれた日系カナダ人女性、ヒデ・ヒョウドウ(婚姻後の名前はシミズ)はこの一例です。彼女はブリティシュ・コロンビア大学で学位を取得する勉強をしていましたが、学業の途中で大学のキャンパスがポイント・グレイに移転し、授業料も2倍になりました。家族を経済的に苦しめてはいけないと思い、彼女は退学しました。そして仕事を探し、教員養成学校に通うことになりました。1926年に教員免許を取得した時、彼女は18歳で日系カナダ人初の教員のとなりました。しかし、学校が日系カナダ人の雇用を拒否したため、彼女は教師としての仕事を見つけることができませんでした。これは日系カナダ人が専門職や職業人として就職するのを阻む人種差別的な考え方の一例でした。

ヒデは粘り強く教職を探し、最終的にはスティーブストンで幼稚園児と日系カナダ人の子ども達を教える職を見つけました。1942年にヘイスティングス・パーク(http://hastingspark1942.ca)に収容された私の母と兄弟のような日系カナダ人の子どもたちに、日系人が自分たちで教育を提供し始めたとき、ヒデの教育技術とBC州の学校制度における経験は、大きな助けとなりました。ヒデはその後テルコ・ヒダカ先生と日系カナダ人市民連盟(JCCL)の協力を得て、強制収容所の日系カナダ人の子どもたちに教育を施せるよう、日系カナダ人の先生の育成を行いました。BC州政府は日系カナダ人の子どもたちに教育を提供する責任を放棄していたのです。

ヒデは日系カナダ人市民連盟(JCCL)でも活動しており、1936年にはオタワの連邦政府下院の「選挙および参政権に関する特別委員会」に出席する4人の代表団の一人に選ばれています。マッケンジー・キング首相は、「東洋系カナダ人自身や一般市民が、東洋系カナダ人の参政権を主張しているとは知らなかった」と述べていますが、実際は日系カナダ人は参政権を求めていました。しかし、特別委員会はこの要求を支持しませんでした。

日系カナダ人が参政権を得るのは1949年になってからでした。第二次世界大戦が終わって4年後のこの年、強制的に移動させられ、資産を奪われ、抑留・監禁されていた約2万2千人の日系カナダ人(ヒデを含む)は、やっと収容所や農場での強制労働から抜け出すことが許されました。日系カナダ人は自分たちの生活を再建しなければならなりませんでした。土地を奪われたことで戻る家はなく、人種差別が続いていたため移動することも困難でした。

選挙権もファースト・ネーションズやイヌイットの人々、その他の人種のカナダ人には否定されました。インド系カナダ人と中国系カナダ人は1947年に、ファースト・ネイションズは1960年にやっと選挙権を得ることになりました。イヌイットは1950年に選挙権を得ますが、1962年まで投票に行くことができませんでした。

先住民やアジア系カナダ人の女性は、ジェンダーの不平等を含む幾重もの差別に直面していましたた。いままでに多くの前進があったとはいえ、なすべきことはまだまだあります。女性は依然として不公平と権利に対する攻撃に直面しています。アジア系女性や先住民族の女性は、いまだに差別の問題や深刻な暴力に直面しており、ビジネス、労働組合、政府、選挙で選ばれた役職などの高いレベルのリーダーシップで代表者となることはないのです。また、多様なジェンダーの人々も差別に直面しています。

NAJCはパーソンズ・デイと女性史月間に、あなた自身とあなたのネットワークの人々を教育するための行動を一つ起こすことを奨励します。

 

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