2月の日系カナダ人の歴史

日系カナダ人の歴史における2月のハイライト

NAJC前会長 ロリン・及川

昨年は1942年の抑留・監禁開始から80周年にあたり、全カナダ日系人協会(NAJC)はその年からのカナダの歴史のハイライトを見直しました。2023年には、1941年から1949年までの期間を見直し、各月のいくつかの日付に焦点を当てます。政府が何をしていたか、そして日系カナダ人への影響について見ていきます。

1941年2月17日 –マッケンジー・キング首相は、16歳以上のすべての日系カナダ人の登録について議論が続く議会での手続きを再開します。一週間後、トム・リード議員、ジョージ・クルックシャンク議員、ハワード・グリーン議員、A・W・ニール議員は、ブリティッシュ・コロンビア州の日本人に「同情的」であると政府の政策を攻撃しました。A.W.ニールは、「首相やここの政府の意見がどうであれ、ブリティッシュ・コロンビア州の私たちは、「いったんJ–.であれば、常にJ–である.」と強く確信している。アンガス・マッキニスはニールの言葉を「カナダへの恥辱」であると呼びました。マッキニスはBC州出身の唯一のCCFの国会議員です。CCFは、1961年に新民主党となった共同連邦党のことです。

1942年2月19日 –キング首相と内閣は、18歳から45歳までのすべての日系カナダ人男性がブリティッシュ・コロンビア州の海岸沿いの幅100マイルのゾーンから排除されることに同意しました。内閣令1348は、保護区外に住む敵性外国人男性のためのワークキャンプを承認します。内閣令1365は、日本人による銃器または爆発物の所持を禁じています。ルーズベルト米大統領は、大統領令9066を用いて、米国陸軍省に、米国西部の沿岸州から11万人の日系アメリカ人を排除する権限を与えています。

1942年2月24日 –内閣令P.C.1486が可決され、法務大臣に「保護区」を離れることを要求する権限を含む、総ての日系カナダ人の移動を制限する権限が与えられます。

1942年2月25日 –キング首相は、国家安全保障のためにすべての日系カナダ人(約22,000人)の排除を正式に発表しました。「この命令によって、カナダの太平洋沿岸の防衛を確保するために必要なすべての安全措置を講ずることが政府の方針です。」 「国家安全保障という理由のために。」

1943年2月5日 –内閣令P.C.946は、政府に戦時中の労働力不足に対処する方法を与えました。OIC(内閣令)は労働大臣に「命令により、カナダのあらゆる場所にいる日本人に、大臣が指定する時間と方法に基づき、カナダの他の場所に移動することを要求する」権限を与えました。[日系カナダ人労働者が第二次世界大戦中に砂糖大根産業を救う]

1945年2月26日 –英国の圧力により、カナダ政府は日系カナダ人を英国陸軍に「貸与」することに同意しました。十二名の二世は、この方針の変更までイギリス陸軍に入隊できるように、許可が下りるのを6か月間待っていました。割り当ては150に設定され、ボランティアが募集されます。

1946年2月20日 –最高裁判所の裁判官は、大きく意見が分かれていた日系カナダ人に対する強制送還命令について決定を下しました。強制送還は合法であると宣言されましたが、裁判官の中では、二世(日系カナダ人2世)の強制送還に関して5対2で賛成、無理強いされる子どもたちの強制送還に対しては4対3で反対と割れていました。また、強制送還に反対する動きの高まりは、首相がこれまでに見た中で最も強い国民の反発を生み出していました。

1948年2月18日 –キング首相は、1949年3月31日まで日系カナダ人に対する制限を継続することに賛成し、新しい内閣令を支持する幹部会と会談しました。この内閣令は、共同連邦党(CCF)のメンバーが反対する中、出席率の低い土曜日の議会で可決されました。

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