7月の日系カナダ人の歴史

日系カナダ人の歴史おける7月のハイライト

NAJC前会長  ロリーン・及川

2023年、全カナダ人日系人協会(NAJC)は、1941年から1949年までの各月に起きた日系カナダ人関係の出来事を見直しています。

特に政府の動きと、その日系カナダ人への影響に注目します。

1942年

7月1日 に政府は物議を醸した家族分離政策を撤回。道路建設キャンプにいる日系カナダ人の夫たちは同年冬までに家族と再会できるようになる。BC州保安委員会は、BC州内陸部、クートネイ地区の孤立した町の住宅施設を拡張する計画を発表。住宅が建設されるまでの間、仮設テント村が設置される。2家族が3部屋で暮らせる住宅が建設される予定となる。テント村の第一号はスローキャンだった。

クートネイ地区の強制収容所/抑留所は、ゴーストタウン収容所として知られていた。スローキャンは1800年代後半、銀が豊富に採掘されたことで賑やかな町となり、人口約1,500人の町には12のホテル、酒場、数十の商店があった。鉱石がなくなると人々もいなくなり、人口は200人まで減少した。廃墟と化した建物が立ち並ぶスローキャンは日系人収容所に理想的な場所であり、これが治安委員会に選ばれた理由のひとつであった。

7月、ヘイスティングズ・パークの子どもたちはその場しのぎの授業を終えていた。バンクーバー地域外から来た約8,000人の日系カナダ人は、強制収容所/抑留所に送られる前に、まずヘイスティングズ・パークに送られた。バンクーバーの日系カナダ人の子どもたちのほとんどは、1942年の学年を修了することができた。

教育は州の責任であるが、BC州政府はその責任を放棄したため、収容された日系カナダ人はすぐに自分たちでクラスを編成しなければならなかった。兵藤ヒデ(後に結婚して清水と名乗る)は、1926年に日系カナダ人として初めて教員免許を取得した。彼女は4月から7月までヘイスティングス・パークで教室を開き、ボランティア教師の養成を手伝った。授業はヘイスティングス・パークのガーデン公会堂の観覧席と垂木を使って行われた。1942年以前、ガーデン公会堂は木製の床とバンド用のステージを備えたダンスホールだった。

 

1943年

連邦政府は、州政府が日系カナダ人の子どもたちの教育責任を放棄した時に介入を拒否した。日系カナダ人たちは、政府、教会、協同組合連邦連盟(CCFは新民主党の前身)に訴えた。グレース・ウッズワース・マクニス(夫のアンガスはCCFのバンクーバー東部選出国会議員)は、学校への支援を集めるために講演活動を行った。カトリック協会、英国国教会、合同教会が治安委員会に圧力をかけ、連邦政府は最終的にキャンプ内の小学校に資金を提供することに同意した。高校教育を受けた日系カナダ人を対象に、ボランティア教師のための短期研修会が設けられた。このプログラムは1943年と1944年の夏に実施された。兵藤ヒデとテリー・ヒダカが(政府の規制があったために)教員免許を持つ唯一の日系カナダ人であり、この二人が授業を監督した。

 

1944年

連邦政府法案135条5項が7月に連邦政府下院を通過。この法案は、1941年12月以降にブリティッシュ・コロンビア州からほかの州に移住した日系カナダ人から連邦選挙の投票権を奪うものであった。

 

1945年

7月20日 1943年に結成された日系カナダ人民主化委員会(JCCD)が、初の月刊誌『二世問題』を発行【二世とは日本人を祖先に持つ第二世代のカナダ人のことである】。この創刊号には、キング首相に宛てた公開書簡が掲載され、日系カナダ人のカナダ軍への入隊や活躍を国民が知ることを妨げるカナダのメディアに対する「検閲指令」に抗議した。その年の初め、首相は下院で、英国が日系カナダ人二世を英国軍に採用したことを明らかにしていた。ケン・アダチはその著書『存在しなかった敵』の中で、隠蔽は安全保障のためではなく、「6月11日の連邦選挙に向け、日本人問題を取り入れて選挙戦を組織していたブリティッシュ・コロンビア州の自由党候補者たち」にとって、この情報が不利になると推測した。

1946年

7月中旬、 第一次世界大戦のカナダ帰還兵であった一世(日系カナダ人開拓者一世)のグループにより、別の抗議活動が開始される。60歳のジョージ・ヤスゾウ・ショージ軍曹は、1931年、兵士定住法に基づき、フレーザー・バレーに19エーカーの土地を購入した。プリンセス・パッツ軍団の退役軍人で2度の負傷を負った彼は連邦政府の日系人財産の没収・売却政策のために、"30年間の働き "を示すものを全て失った。彼の土地、2階建ての家、4つの鶏舎、2,500羽の鶏、農機具は、1943年に彼の許可なく1,492.59ドルで売却された。税金と手数料を差し引いた後、彼は39ドル32セントを提示されたが断った。彼の損失は4,725.02ドルであると彼は語った。

 

1947年

連邦政府内閣は、日系カナダ人の連邦政府による強制売却の損害はごくわずかであると見なした。下院で日系カナダ人の財産処分に関する質問が提起され。この調査は決算委員会に引き継がれた。公聴会の中で、敵国人財産管理局の役員は、カナダ人の日系カナダ人財産に対する破壊行為による損失がかなりあったことを認めた。同委員会は、「現在カナダに居住している日系人が、売却時または紛失時にその財産が公正市場価格よりも低い金額しか受け取らなかったために被った損失について」調査する委員会を設置するよう勧告した。

 

7月18日 、内閣令P.C.1810に基づき委員会を設置。BC州最高裁判所判事ヘンリー・バードが委員長に任命された。委員会の調査対象条件は非常に限られていたため、日系カナダ人にとっては、この委員会の設置は無残な失望となった。審査できるのは、敵国財産管理人が管理する財産の売却による損失だけであったが、それは管理人が監督や売却において「合理的な注意を払う」ことを怠ったことが証明された場合に限られた。委員会は、財産売却自体に疑問を呈することも、公民権侵害や収入・教育の損失、精神的・心理的外傷に対する補償を検討することはできなかった。

 

続きはまた来月。

 

Scroll to top