5月の日系カナダ人の歴史

日系カナダ人の歴史における5月のハイライト

NAJC前会長           ロリン・及川

2023年、全カナダ日系人協会(NAJC)は、1941年から1949年までの各月のハイライトを見直しています。特に、政府の行動とその日系カナダ人への影響に注目します。

1942年

5月13日、 政府が日系カナダ人を収容/収監した町、「ゴーストタウン」と呼ばれた5つの町のうち、2番目の町、キャスローに日系カナダ人が初めて到着します。日系カナダ人は、クートニー湖を外輪船SSナスキン号に乗って到着しました。日系人の流入でカスロの人口は500人からいっきに約1,200人に増えました。1890年代に建てられた歴史あるランガムホテルに約78人が滞在しました。この建物は現在、慈善団体による公共芸術遺産センターと日系カナダ人博物館となっています。

 

5月21日までに、大工、配管工、電気技師を含む日系カナダ人1,021人が、グリーンウッド、キャスロー、ニューデンバー、スローキャンシティ、サンドンの5つのゴーストタウンに行って、日系カナダ人のための住居の準備をしました。この様子をケン・アダチは著書「存在しなかった敵」の中で次のように書いています。

 

日系カナダ人に対する人種差別はパールハーバーから始まったわけでない。最初の大規模なヘイト行為は、1907年にバンクーバーで反アジア暴動を組織した人種差別主義者の政治家、労働組合、その他の個人によって行われた。暴徒は日系カナダ人をバンクーバーから追い出そうと、メイン・ストリートとヘイスティングス・ストリートの角にある市役所からパウエル・ストリート周辺へと出発した。その途中、チャイナタウンを通り、商店を壊して、商品を略奪した。

 

日系カナダ人が勤勉に働き、次第に豊かになっていくと、人種差別主義者の政治家たちは、カナダ人労働者と日系人労働者を分断し、互いに対立させるために、白人が日系人を恐れるようなデマを流し続けた。例えば、漁業では、高度な技術を持つ日系カナダ人の漁師は、自分たちの漁業権を剥奪されないように戦わなければならなかった。

 

排日政治家は真珠湾攻撃を日系カナダ人に対する恐怖を正当化し、政府の排日政策に対する支持を獲得することに利用した。日系カナダ人の破壊活動や、日本軍のブリティッシュ・コロンビア州への攻撃の可能性についての噂が絶えなかった。

 

1942年5月、ワシントンDCで太平洋戦争評議会が開かれ、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、キングカナダ首相が話し合った結果、日本はロシアのあらゆる進出に対する防衛に専念していることが明らかになった。太平洋岸への攻撃を心配する必要はなかったのである。その2年前の1940年、日系カナダ人のカナダ軍入隊の可能性を検討するために結成された特別委員会が、ブリティッシュ・コロンビア州で開かれ、日系カナダ人の破壊活動の証拠はないとする警察各部のメンバーを含む証人から意見を聞いた。これらの証人は、日系カナダ人は「法を守り、品行方正な市民として立派な記録を持っている」と述べた。先に、カナダ太平洋軍司令官のR.O.アレクサンダー少将は、日本軍がミッドウェイを攻撃し、カナダに接近することに若干の懸念を表明していた。太平洋戦争評議会の議論では、この懸念は退けられた。

 

1943年

1943年5月、日系カナダ人は、財産の強制売却を阻止するための裁判にむけた資金調達に拍車をかけた。日系カナダ人は1942年に自宅から追い出された。中にはわずか、24時間の通告で家を出なければならない人もいた。家族はスーツケース数個と、手で持ち運べるものしか持っていけなかった。政府は日系カナダ人の財産や所有物を「保護し保全する」と告げた。しかし、政府はこれらの財産を総て売却する計画を持っていた。家、農場、会社が売りに出され、ストーブ、台所用品、食器、家宝などの財産は、1943年から1947年にかけて行われたオークションで売却された。

 

農村諮問委員会は、バンクーバー郊外の日系カナダ人の不動産の売却を担当していた。1943年5月、委員会は退役軍人土地法監督官のイワン・T・バーネットから769軒の農場に対する購入オファーを受けた。委員会は、日系カナダ人の財産が退役軍人に渡るというアイデアに賛成したのである。皮肉なことに、カナダのために戦った第一次世界大戦の日系カナダ人退役軍人は、財産を強制的に根こそぎ奪われ、追放された2万2千人の中に入っていた。

 

バーネットは不動産の価値よりはるかに低い入札価格を提示したが、農場は評価額の70%未満で売却され、市場価格よりもさらに低かった。さらに、1943年に日系カナダ人農家の農作物を売却した代金43,000ドルもこの売却額に含まれていて、日系カナダ人農家の収入にならなかったので、日系カナダ人にとって、反感極まりない取引となった。

 

一方、裁判は裁判官のJ.T.ソーソンによって無期限の延期が許可された。ソーソンは1942年の連邦政府内閣の一員で、日系カナダ人の抑留・収容を承認した元国家戦争サービス大臣であった。1945年の終戦から2年後、彼はついに裁決をくだしたが、それは「敵性外国人財産管理人は、政府支出裁判所に対して説明責任を持たない」というものであった。しかしこの裁決はいずれにしても遅すぎた。連邦政府はすでに日系カナダ人財産を収奪し、すべてを売却していた。1947年には、推定一千百五十万ドル相当の日系カナダ人の財産が、その価値の半分以下で売却された。

 

 

1945年

ロッキー山脈以東への自主的な移住が遅々として進まないと考えた政府は、4月から5月にかけて日系カナダ人に日本への強制送還政策を実施する。日系カナダ人は、東部への即時再定住か、政府が「日本への送還」と呼ぶ期限なしの送還を選択せざるを得なくなった。絶望と混乱の中、16歳以上の日系カナダ人6,884人が、3,500人の扶養家族と共に送還希望申請書に署名する。

 

 

1946年

5月31日、 3,964人の日系カナダ人が、S.S.マリン・エンジェル号に乗船し、午後10時にバンクーバー港から日本に向かって出港した。日本に到着後は神奈川県浦賀の不潔な米軍バラックに収容された。連邦政府は戦時措置法の下で強制送還を含む強制力を与えたが、「強制送還」とは、外国人を母国に送り返すことであり、市民を外国に追放することではない。「強制送還」された日系カナダ人の多くはカナダ市民であった。

 

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