4月の日系カナダ人の歴史

日本カナダ史における4月のハイライト

NAJC前会長 ロリン・及川

 

2023年、全カナダ日系人協会(NAJC)は、1941年から1949年までの期間、各月の日付のハイライトを見直すことにしました。政府の行動と日系カナダ人への影響に重点を置きます。

1942年4月11日 – 政府は日系人家族を分離し、男性を道路キャンプで働かせることを計画した。フレーザーバレーの一部の家族は、家族が分離されるのを避けるために、アルバータ州とマニトバ州の甜菜農家に労働力を提供することに同意した。4月11日までに、2,664人がアルバータ州に、1,053人がマニトバ州に送られた。

 

月末までに140人の日系カナダ人二世が、家族と離れることを拒否した。ある者は隠れ、ある者はバンクーバーの移民施設に収容されることを要求し、妨害を強行突破して施設に入った。最終的にはオンタリオ州ペタワワの捕虜収容所に送られた者もいたが、人数が増えるにつれオンタリオ州の施設は埋まり、バンクーバーの移民施設にも空きがなくなった。

 

1942年4月26日 グリーンウッドに最初の日系人が到着。グリーンウッドはブリティッシュ・コロンビア州内陸部で最初の収容所である。ケン・アダチは、著書『存在しなかった敵』の中で、4月21日に二世と一世の男性の先遣隊が、空き家や建物の修復のために派遣されたことを述べている。グリーンウッドについて2冊の本と記事を書いているチャック・タサカは、4月26日に、主に女性や子ども、そして何人かの老人を含む最初の日系人の列車が到着したことを確認している。約1,200人の日系カナダ人がグリーンウッドに到着し、1918年までに最盛期の3,000人から200人以下にまで減少した町の人口と経済状況を回復させることになった。

 

1943年4月1日、ピーク時、BC州内陸部の収容所に収容されていた日系カナダ人の数は、1942年以前のバンクーバー地域の日系人とほぼ同数であった。収容者の4分の1以上がスローキャン地区の収容所に収容されていた。約4,764人がベイファーム、ポポフ、レモンクリークに収容されていた。2,624人はタシミにいた。ニューデンバーとローズベリーに1,701人。グリーンウッドに1,203人。キャスロに965人、サンドンに920人。政府は日系人をB.C.州沿岸の保護地域から追い出すことを急ぐあまり、収容所の住居を十分に準備していなかった。スローキャン市とポポフの郊外では、秋になると数週間テントで生活する人たちがいた。急遽建てられた小屋の列は、木の壁の隙間から冷たい空気が吹き抜けるため、テントよりもはるかに良いというわけではなかった。

 

政府は日系カナダ人に、財産はすべて敵性外国人財産管理人の管理下に置かれることになると告げた。そして所有者の同意もなく、全ての日系人の所有物を売り始める。1943年4月初め、バンクーバーの新聞に入札や公売の広告が掲載され始める。一世(日系カナダ人の開拓者)たちは、この売却に法廷で異議を唱えようとした。裁判の審理は長引き、ほとんどの販売は1944年4月の不動産と動産売却の期限前に完了した。

 

1944年4月、 政府は1944年まで収容所でのカメラの使用を許可しない。しかし、政府は日系カナダ人の財産の押収の一環として、車、船、家、ビジネスに加え、すべてのカメラ、ラジオを持ち去った。

 

1945年4月13日、キング首相の「カナダにいるすべての日本人種の、忠誠心、態度を調査し、カナダに留まるのにふさわしくない人を認定する」というプログラムがタシミ収容所で開始される。RCMPは16歳以上のすべての人を対象に聞き取り調査を行う。日本への自主的な送還か、”ロッキー山脈の東 “に行くかの2択で忠誠心を決める。カナダで生まれ何世代にもわたってブリティッシュ・コロンビア州に住んでいた日系カナダ人にとってこれは不安な「選択」であった。

 

1945年4月19日、キング首相は連邦議会下院で、イギリスが二世を軍に勧誘していたことを認める。政府は軍の安全保障のためにこの情報を公開しないと言っているが、本当の理由はブリティッシュ・コロンビア州の自由党の候補者を守るためであったようだ。これらの候補者は、6月の連邦選挙に向けた選挙綱領として、日系カナダ人のBC州からの永久追放を推進していたのである。

 

1947年4月、市民権法が制定され、中国および南アジア系カナダ人に選挙権が与えられるが、日系カナダ人およびカナダ先住民族は除外される。翌年、立法委員会は州選挙法を拡大し、日系カナダ人を含めるという動議を検討した。この動議は5対2で否決された。

 

1948年4月21日 、ブリティッシュ・コロンビア州国土森林省は、日系カナダ人の国有林地での就労禁止を解除する。この禁止令は1943年に一時的に解除され、1948年1月に再導入された。NJCCA州支部、市民的自由連盟バンクーバー支部、伐採業者、国際森林労働者連盟は、政府に日系人の就労禁止に抗議する書面と電報を送った。ケン・アダチは、その著書『存在しなかった敵』の中で、かつて反日新聞だったバンクーバー・サン紙からの支援という「最も驚くべき展開」を指摘している。この新聞は、「ブリティッシュ・コロンビア州は、この種の人種差別をとっくに卒業している」と述べている。「パールハーバー以来の人種間の対立を促す状況は、もはや変わってしまった。B.C.は公平でなければならない。」

 

1949年4月1日、 日系カナダ人がカナダ国内を自由に移動できるようになり、州および連邦選挙で投票できるようになった。前年までBC州政府は日系カナダ人の州選挙での投票権を拒否し続けていた。そして、連邦政府が日系カナダ人に対する移動制限を解除するまで、日系人のB.C.州での選挙権は考慮しないと宣言していた。第二次世界大戦が終わってから約4年後の1949年3月31日、連邦政府による日系カナダ人に対する戦時中の制限が解除された。日系カナダ人は、希望すればBC州の海岸から100マイル以内の保護区に戻ることができるようになった。しかし、多くの日系カナダ人は、戻るべき家、農場、店舗がなかったため戻ることができなかった。家や財産を奪われ、同意なしに売られ、B.C.以外の地域で再起を図ることを余儀なくされた。

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