11月の日系カナダ人の歴史

日系カナダ人史における11月のハイライト

NAJC前会長 ロリーン・及川

2023年、全カナダ人日系人協会(NAJC)は、1941年から1949年までの各月の日系カナダ人史のハイライトを見直しています。特に、政府の動きと、その日系カナダ人社会への影響に注目します。

 

1938年

1938年は今回の検討期間外ですが、1938年11月の「ニュー・カナディアン紙」の創刊は日系人社会にとって重要です。初代編集長はシノブ・ヒガシで、「ニュー・カナディアン紙」は日系カナダ人二世による、日系カナダ人二世のための新聞でした、当初は記事はすべて英語でした。日系カナダ人地域社会のニュース、イベント、活動を報道し、社説で意見を述べ、日系カナダ人の意見を、他のカナダ人が簡単に知ることの出来るようにした最初の新聞でした。「ニュー・カナディアン紙」創刊号には、第3回全カナダ日系市民連盟会議の「日系カナダ人がカナダ全土に分散する必要性について」という会議のテーマと議論が掲載されました。このテーマはバンクーバーの他の新聞にも取り上げられ、さらにカナディアン・プレスのワイヤ・サービスを通じて、カナダ全国に広まりました。

残念なことに、日系カナダ人に関する誤った話が、当時の新聞に掲載され続けました。これらの記事を、人種差別主義者の政治家が自由に引用しました。そして、これらの記事は、証拠がないにもかかわらず、すべてが事実のように、読者に受け取られました。真珠湾攻撃後も、日系カナダ人による破壊工作に関する虚偽の記事が繰り返し掲載され、排日政治家によって日系カナダ人に対する差別の根拠として使われました。

 

1941年

11月、トーマス・ショーヤマが「ニュー・カナディアン紙」の編集長(1939-1945)に就任しました。ショーヤマは、1936年以来、日系カナダ人差別と闘ってきた日系カナダ人市民連盟のスポークスマンを務めていました。

現在、私たちはショーヤマの輝かしい経歴を知っています。戦後、ショーヤマはサスカチュワン州のトミー・ダグラスのCCF(協同組合連邦連盟、新民主党の前身)政権に経済顧問として参加し、現在のカナダ社会の象徴である公的医療制度の開始を支援しました。

1941年当時、ショーヤマは知的で明晰な編集者でした。ショーヤマはUBCを優秀な成績で卒業しました。しかし、商学と経済学の学位を取得しただけでは、職業に就くには十分ではありませんでした。日系人であるために、ほとんどの就職のチャンスを失い、他の日系カナダ人と同様に選挙権も与えられていませんでした。

当時、ショーヤマは政治状況と過去の慣行を分析していました。ショーヤマは政府が日系人に対する無知を克服するためには、日系カナダ人による日系カナダ人社会に関する情報を広く、定期的にカナダ政府に報告する必要があると信じていました。そして、現在の状況のままでは、いずれ日系カナダ人に対する暴力が扇動されるだろうと、恐れていました。

日系カナダ人に対する主要な反対運動家は、BC州選出のイアン・マッケンジー議員、A.W.ニール議員、トーマス・リード議員、ハワード・グリーン議員でした。ニールとリードは過去20年間、排日運動を続けてきました。彼らは「白人のためのカナダ協会」から提供された資料と、その政治的立場を利用しました。これらの国会議員たちは、1941年末までに大規模な反日カナダ人キャンペーンを指揮することになります。

ショーヤマは、これらの排日政治家が大衆を扇動するのに成功したのは、カナダ市民の日系人に対する恐怖心に訴えたからだと知っていました。カナダ人は日系人に職を奪われることへの恐怖心を抱き、異種民族間結婚による社会の変化を恐れました。これらの恐怖心と嫌悪感は、家と国の安全保障を大切にするカナダ人一般大衆の心に響きました。日系人にたいする論理的意見は、カナダ人を動かしませんでした。

キング首相は、1940年以来一貫して日系カナダ人について、日系カナダ人は国家の安全保障にとって何の脅威にもならない、というカナダ軍幹部の意見に耳を傾けようとしませんでした。RCMPも、日系カナダ人は国家の安全保障にとって何の脅威にもならない、という同じ結論に達していました。キング首相は理性的な人物であったにもかかわらず、15年近く続いた自分の首相としての権力を脅かすようなことは、何一つ支持しませんでした。その結果、BC州の政治家たちの激しい人種差別主義が、キング首相の政府の政策を左右することになりました。

 

1942年

11月中旬までに、ほとんどの日系カナダ人はブリティッシュ・コロンビア州西海岸の自宅から強制的に引き離され、それぞれの目的地に送られました。メトロ・バンクーバー以外のBC州沿岸地帯や島嶼にいた約8,000人の日系カナダ人は、ヘイスティングス・パークに収容された後に、BC州内陸部のゴーストタウンと呼ばれる収容所に送られました。メトロ・バンクーバーの日系カナダ人は、自宅から直接、収容所に送られました。ベイファーム、ポポフ、レモンクリークを含むスローキャン渓谷地域には、日系カナダ人収容所人口の4分の1以上、4,764人が収容されました。 約4,000人の日系カナダ人がアルバータ州とマニトバ州に送られ、甜菜農場で奴隷同様の待遇で働かされ、鶏小屋や掘っ立て小屋で暮らしました。

収容所で家族連れは、劣悪な住宅事情に苦難しました。ほとんどが、見知らぬ家族同士で、ゴーストタウンのホテルや建物を改築したものに住んだり、生木で建てられた掘っ立て小屋に収容されました。生木の掘っ立て小屋は、生木が寒さで収縮して、壁に大きなひび割れができ、そこから冷気がしみ込んできました。小屋は14フィート×24フィートで、断熱材もありませんでした。水は外の蛇口から汲んでいました。トイレは戸外に建てられ、共同で使用しました。それでも、掘っ立て小屋に入れた人は、テントや、雨漏りする屋根の壊れたアイスホッケー場などで生活をする人より、少しはましでした。

11月下旬には、連邦政府による日系カナダ人の農場買収が最終段階に入りました。敵性外国人財産管理人は、当初、故郷を追われた日系カナダ人が残していった財産の、保護と管理をすることしかできなかったため、連邦政府は法律を改正する必要がありました。農場強制売却のための敵性外国人財産管理人の役割を拡大するには、戦争措置法に基づく新たな内閣令が必要でした。キング首相の自由党政府は、売却によって生じた収益が収容所にいる日系カナダ人を支援するために使用されると言えることに満足しました。これは野党の保守党が、日系カナダ人には最低限の生活を保証する支出以外は必要ない、といって自由党政府に対する非難から自分たちを守るために、これを利用することができたからです。

 

1944年

11月17日、トロント警察委員会は、事業を起こそうとする日系カナダ人に対する営業許可証の発行を拒否しました。「カナダ生まれの市民ではあるが、祖国がカナダと戦争状態にある人には、営業許可を与えない。」が拒否の理由でした。ジミー・ヒライは小さなレストランを経営する許可を司法省から得ていました。しかし、営業許可の申請は何度も延期された後に却下され、結局、ヒライはレストランを購入価格以下で売却し、損失を被りました。

 

1945年

11月、内閣はカナダ居住者を国外追放する権限を議会に求めましたが、拒否されました。しかし、その6週間後、数週間後に期限切れとなる戦争措置法に基づき、新たな内閣令を発布してその権限を獲得しました。これにより、連邦政府は1万人の日系カナダ人の日本への追放を命じました。

前年、キング首相は忠誠委員会を設置し、どの日系カナダ人がカナダに対する忠誠心があるかを確認し、カナダに忠誠な日系カナダ人は、カナダ全土に分散することに同意すればカナダに留まることが許されることを決定しました。不忠誠な者は「国外追放」され、市民権を失うことにされました。政府は自主的に日本へ送還(国外追放)を希望する人を待っていては時間がかかり過ぎると考え、1945年の初めに国外追放政策を加速させました。連邦政府は、収容所の人々にカナダ東部か日本かの選択を迫りました。6,884人の日系カナダ人(16歳以上)が、恐怖心や情報不足、あるいは誤った情報のために送還(追放)要請書に署名しました。署名者合計10,347人の中には3,503人の扶養家族が含まれていました。

連邦政府が日系カナダ人の日本送還(追放)またはカナダ分散の政策を決定したのは、8月に日本が降伏してからわずか2ヶ月以内のことでした。連邦政府はこれらの政策に法律的拘束力を持たせるには時間が足りないことを知っていて、日系カナダ人の日本送還またはカナダ分散の政策を加速させました。

1946年

カナダ東部の市町村議会では、反日感情が続いていました。オンタリオ州南西部では農業労働者が不足していたにもかかわらず、チャサム市議会は日系カナダ人労働者の受け入れを拒否しました。チャサム近郊のセント・トーマス市は、150人の日系カナダ人労働者を侵略者とみなし、町から7マイル離れたホステルに滞在させることを懸念しました。

 

1948年

11月12日、全カナダ日系カナダ市民協会(NJCCA)は日系カナダ人財産の補償に関する王立委員会設立要請書を連邦政府に提出しました。王立委員会は、財産の補償には、日系カナダ人自身が、「敵性外国人財産管理人が、財産の監督や売却において合理的な注意を払わなかったことを証明しなければならない」という、非常に限定された条件のもとに設置されました。王立委員会は、全国に散らばる非常に多くの日系カナダ人の様々な種類の不動産を調査するという困難な仕事をすることになりました。日系カナダ人は、王立委員会の活動の中で、財産の補償に必要な証拠が発見され、調査対象が拡大されることに淡い期待を抱いていました。

しかし、その淡い期待は打ち砕かれることになりました。1950年、日系カナダ人の一人は、1930年に3,000ドルで購入した家屋を、1943年に敵性外国人財産管理人が1,200ドルで売却しましたが、この件に関しての補償金として140.50ドルを受け取っただけでした。BC州サーリー市の、ある日系カナダ人農家は、10エーカーの農場の補償金として、わずか412.50ドルを受け取っただけでした。敵性外国人財産管理人は、日系カナダ人の不動産売却のために、平均23.2%の手数料と12%の鑑定料と広告料を請求しました。また、すべての請求が考慮されたわけでもありませんでした。日系カナダ人にとって、財産の強制売却は金銭的価値の損失だけでなく、財産を持っていたならば得られただろう様々な機会の損失と、私有財産を強制没収、売却されたという人権の損失でもありました。

 

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