日系カナダ人の歴史

初期の歴史

明治時代になると日本の社会は次第に自由になり、若い人たちは外国に出かけるようになった。日本人で初めてカナダに定住した記録のある人は1877年の永野萬蔵(ながのまんぞう)である。永野以前にも日本の漁師でブリティッシュ・コロンビア州の西海岸に遭難して流れ着いた人がいたという記録がある。

その後、日本からの移民の波があり、特に若い日本人男性がカナダにおしよせた。ある者は冒険を求め、ある者は富を、またある者は制約の多い日本の家制度を逃れてカナダに来た。そして1901年までには5,000人余りの日本人がカナダで暮らしていた。

左から時計方向に永野萬蔵(中央の人)、ヨー・オーヤ(最初の日本女性のカナダ移民、1887年)でカツジ・オーヤの母親(下の写真の中央の人)、最初の日系カナダ人二世(右の写真)写真はオンタリオ州ロンドンのJ・オーヤ夫人の提供。
NNM 2001-28-2-1-5.

カナダに住む独身日本人男性は写真と手紙を交換して日本から花嫁を呼び寄せた。これらの「写真花嫁」は1908年からカナダに来るようになり、その数が一番多かった1913年には300人から400人に達した。カナダ政府は1885年にはすでに人頭税を導入して中国からの移民を制限しようとした。しかしこのような制限は当時の日本からの移民には適用されなかった。1905年から1907年にかけてカナダに日本から来る年間の移民数が最大になった。1907年までにカナダに住む日本人の数は18,000人に達した。

日本移民の大多数は農民または漁民であったが、商人もいた。日本移民のごく一部だけが教育程度が高い上流階級からであった。日本移民は選挙権を持てないために選挙に参加出来ず、また専門職や公務員になれなかった。 participating in professions, and holding public office.

1900年にカナダ市民権を獲得したトメキチ・ホンマは選挙人名簿に登録しようとしたが拒否されたので裁判所に上訴した。日系カナダ人は専門職に就けなかったために林業、鉱業、漁業、商業に職を求めた。

白人社会でアジア系移民排斥の気運が高まり1907年9月7日、大勢の怒り狂った白人の暴徒がバンクーバーのチャイナタウンをデモして商店のガラスを破り、店内に侵入して住人を怖がらせた。

左からトメキチ・ホンマ、1907年の反アジア移民・バンクーバー暴動による日本人商店の被害、林業労働者、家族写真

次に暴徒は日本人街のあったパウエル・ストリートにおしよせた。暴徒が来るのを知っていたパウエル・ストリートの日本人は暴徒と戦い、押し返したけれども、商店やビジネスは大きな被害を被った。このようなアジア系移民に対する白人カナダ人の敵意は初期の日本移民が受けた人種差別が激しくなったもので、日本移民はその後、長らくこのような経験をしなければならなかった。ブリティッシュ・コロンビア州にアジア系移民が定住するのを妨げるために連邦政府は非白人に対する人種差別な法律を幾つも作った。その一つが1908年に日本政府と結んだ協定で、これにより日本からの男子成人の移民は一年400人に制限された。女性および子供の移民制限はなかった。

カナダ連邦政府は1941年12月8日に開戦した太平洋戦争を「日本人問題」を除去する良い機会と捉え、1942年1月8日、戦時特別法を発令して日系カナダ人から市民としての権利を剥奪し、連邦政府に無制限の権力をあたえた。また戦時特別法による連邦政府の政策に市民は裁判で争うことが出来なかった。日系カナダ人は敵性外国人と分類され「日本人を祖先に持つ人」と一括された。

幾つもの内閣条例が連邦議会で承認され、日系カナダ人の権利は次から次へと剥奪された。パールハーバー攻撃の六ヶ月前に18歳以上の日系カナダ人は指紋をとられ連邦警察に名前を登録された。日系カナダ人はすべて1949年までに身分証明証を所持することが義務付けられた。

JCCC 2001.3.59.
日系カナダ人身分証明証 NNM 2010.80.3.3, NNM 2011.16.5.1, NNM TD 107.001.

第二次世界大戦の経験 ― 日系カナダ人の強制収容と分散

1942年2月7日に連邦政府は内閣条例第365号を発令してブリティッシュ・コロンビア州本土の西海岸から100マイル以内を「保護地区」と定めた。ブリティッシュ・コロンビア州公安委員会と連邦政府の機関にこの保護地区から日本人を祖先に持つ人をすべて排除する権限を与えた。ブリティッシュ・コロンビア州西部海岸地域の日系カナダ人はバンクーバーのヘイスティング・パークの家畜展示場に収容された。

日系カナダ人家族はばらばらにされ、男性は道路建設現場、オンタリオ州の捕虜収容所に送られた。男性で家族と一緒に残り、マニトバ州またはアルバータ州の砂糖大根農場に行ったものもいる。農場では、骨の折れる労働をして僅かな収入を得、粗末な住居で生活して、極寒の冬を過ごさねばならなかった。

ヘイスティング・パークの女性居住区 NNM 994-69-3-20.
サンダーリバーの道路建設現場の飯場. NNM 1994.51.4.
ナソーキン号でブリティッシュ・コロンビア州キャスローに到着する日系カナダ人. NNM 2012-20-5.

強制収容所はブリティッシュ・コロンビア州の内陸部に作られた。収容所は急造の粗末な建物、テント、もと鉱山町のゴーストタウン、廃屋などで、数家族が一つ屋根の下で過酷な生活を強いられた。

あとに残された日系カナダ人の財産はトラストとして保持されるべきものだったが、1943年1月19日に連邦議会を通過した内閣条例第469号は、連邦政府が財産の持ち主の承諾なしに売却する権限を与えた。1945年12月12日に行われた連邦警察の忠誠心調査は、ブリティッシュ・コロンビア州の日系カナダ人をすべて排除することを保証した。日系カナダ人への最後通告は、ロッキー山脈の東への移動か、日本への追放である。この移動制限は、その後、四年も続き、1949年4月1日まで日系カナダ人は西海岸に戻ることを許されなかった。同じく、日系カナダ人が連邦政府の選挙権を得るのも1948年6月、ブリティッシュ・コロンビア州の選挙権を得るのも、1949年3月31日になってからであった。

ナソーキン号でブリティッシュ・コロンビア州キャスローに到着する日系カナダ人. NNM 2012-20-5.

再生 ― 日本人カナダ移民100年記念と補償問題

1977年にカナダの日系人社会は日本人カナダ移民100年祭を祝う。カナダ各地で記念行事が行われ、日系カナダ人社会が第二次世界大戦中の経験を含む自分たちの歴史に向き合うようになる。

日本人カナダ移民100年記念祭、バンクーバーのオッペンハイマー公園の桜の植樹 (写真はタミオ・ワカヤマによる); NNM 2013.70.16.

全カナダ日系市民協会は、日系社会の福利を代弁するため1947年に設立された。1980年に、全カナダ日系人協会と名称を変更し、戦時補償運動をコミュニティ・プロジェクトとした。勇気と決意をもって、リーダーたちは忍耐強く、無数の障害を克服していった。

1988年9月22日に戦時補償問題の合意書が全カナダ日系人協会会長アート・ミキと連邦政府首相ブライアン・マルルーニとの間で締結された。首相は日系カナダ人が連邦政府によって被った不正義を認めた。首相は日本人の被った不正義を道徳的にまた法律的に正当化することは出来ないと述べた。そしてカナダ人すべてが、日系カナダ人が被った強制収容、財産の没収、参政権の剥奪という歴史的な事実に向き合い、このよう出来事を二度と容認しないよう、或いは、繰り返さないようにと述べた。(連邦議会下院議事録、1988年9月、19499ページ)

NNM 2013.35.2.4.2.
NNM 2010-32-124
Brain Mulroney and Art Miki signing the Redress Document in 1988

補償問題合意書

カナダ人は国民として人種及び民族的起源を問うことなく万人の平等と正義を保障する社会を創造することを明言する。

第二次世界大戦中及び戦後、その大多数がカナダ市民であった、日本人を先祖とするカナダ人は、カナダ政府が日系人社会に対して行った前例なき行為によって損害を被った。当時軍事的に必要だと考えられていたとしても、第二次世界大戦中の日系カナダ人の強制移動と収容、そして戦後の強制送還と追放は不当なものであった。

振り返ってみると、選挙権剥奪、抑留、個人及びコミュニティの財産の没収と売却、追放、強制送還、行動の自由の制限と戦後まで続いた政府の政策は人種的差別思想に影響されたものであった。収容された日系カナダ人は、その財産を清算させられ、売却収益は自分たち自身を収容するための経費に当てられたのである。

これらの不正義を認知することは、過去に行われた越権行為が非難されるべきものであり、カナダにおける正義と平等の原則が改めて確認されるべきものであることを全カナダ人に告知する。

それ故に全カナダ人を代表してカナダ政府はここに次のことを行うものとする。

1)第二次世界大戦中及び戦後の日系カナダ人の取り扱いは不当なものであり、今日理解されているように、人間としての権利を侵害するものであったことを認める。

2)政府に許されている最大の権限をもって、同様の事態が再び起こらないように務めることを誓う。

3)多大の圧迫と苦難にもかかわらず、カナダへの献身的姿勢と忠誠を保持し、国の発展に多大な貢献をした日系カナダ人の不屈の精神と決意を大いなる尊敬の念をもって称賛する。

カナダ首相 ブライアン・マルルーニ

注:この全カナダ日系人協会とカナダ連邦政府との補償問題解決の合意書の日本語訳は次の書物を参考とした。ロイ・ミキとカサンドラ・コバヤシ共著、佐々木敬二監修解説、下村雄紀、和泉真澄訳、「正された歴史 日系カナダ人への謝罪と補償」(つむぎ出版、京都市、1995年)

今日の日系カナダ人

補償問題の合意には象徴的な個人補償(それぞれの日系カナダ人の被った被害の金銭的な全額補償ではない)と日系カナダ人社会再生基金が含まれている。これから10年間にカナダ各地で文化センターが建設され、日系カナダ人補償問題基金によって支援されたさまざまなプロジェクトが遂行される。

全カナダ日系博物館と文化センター (写真はマント・ナカムラによる)

各地の日系人社会の活性化にも関わらず、強制分散政策により、日系カナダ人の異民族間結婚の比率が高くなり、カナダにおける日系人コミュニティの成長に影響を与えた。補償問題の合意にはカナダ人種関係財団の設立も含まれていた。補償問題の合意に至るまでの活動により、日系カナダ人は自分たちの経験を語る勇気と自分たちの文化遺産にたいする誇りを取り戻した。

トロント日系カナダ人文化会館における本の刊行会 (写真はスティーブン・カジによる)ji

ビデオ―ブリティッシュ・コロンビア大学の学生

日系カナダ人戦時期の歴史(1916年〜1938年)

日系カナダ人初期の歴史(1833年〜1916年)

強制移動と収容(1941年〜1948年)

戦後の歴史(1949年〜1987年)

補償とその後(1988年〜2000年)

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