日系カナダ人史における12月のハイライト

日系カナダ人史における12月のハイライト
NAJC前会長 ロリーン・及川

2023年、全カナダ日系人協会(NAJC)は、1941年から1949年までの各月の、日系カナダ人の歴史に大切な日付のハイライトを書き記しました。特に、連邦政府の政策と、その日系カナダ人社会への影響に注目しました。

 

1941年

12月第1週、アッパー・フレーザー日系漁業協会が5,808缶目の鮭缶にラベルを貼り、日系カナダ人コミュニティから英国への魚の寄贈3.25トンが完了した。

12月7日現在の日系カナダ人総数は約23,149人。ブリティッシュ・コロンビア州(BC州)には約22,000人が住んでおり、これはBC州の人口の約2.7%にあたる。しかし、日系カナダ人はカナダの総人口の1%の5分の1にも満たない。日系カナダ人のほとんどが、カナダ国籍を持つカナダ市民であった。日本国籍の女性が約2,000人、男性が約3,000人いたが、彼らの多くはカナダに25年から40年住んでいた。

 

127日、日本海軍航空隊が真珠湾を攻撃。

真珠湾攻撃から11週間後の1942年2月26日、マッケンジー・キング首相は日系カナダ人全員の強制移住を命じた。

しかし、真珠湾攻撃のわずか数時間後の12月8日未明、1,200隻の日系カナダ人漁船がカナダ海軍によって拿捕されていた。

12月16日、連邦政府内閣令P.C.9760は、カナダ国籍の有無にかかわらず、すべての日系カナダ人に敵性外国人登録官への登録を義務付けた。日系カナダ人はこの登録証を携帯し、要求に応じて提出しなければならなかった。

12月17日、太平洋岸安全保障連盟が結成される。彼らはオタワの日系カナダ人に対する対応を強く批判した。連盟の最も活動的なメンバーの一人はバンクーバーの市会議員ハルフォード・ウィルソンで、彼は市議会に日系カナダ人のBC州からの即時退去を要求する動議を提出した。

12月末までに、人種差別主義者の政治家たち(イアン・マッケンジー、A.W.ニール、トーマス・リード、ハワード・グリーン)は、すべての日系カナダ人のBC州追放を求める数十年にわたるキャンペーンを続けた。

 

1942 年

スローカン・バレーの天候はここ数年で最も厳しかった。気温は零下まで下がった。10月末から2月初めまでに約82インチの雪が降った。南西海岸の温暖な気温に慣れていた日系カナダ人にとっては衝撃的だった。トイレに行くにも、近所の人に会うにも、雪の中に道を掘らなければならなかった。生木で急造された小屋に住んでいた日系カナダ人が朝、目を覚ますと、掘っ立て小屋は5フィートの雪の吹き溜まりで埋もれていた。

 

1943年

12月、労働省により独身男性のBC州での就職が解禁される。しかし、連邦政府は国家選択サービス(NSS)計画による再定住の強制に失敗。

この年の初め、連邦政府は、戦時中のカナダ東部における労働力不足に対処するため、カナダ生まれで帰化した日系カナダ人を国家選択サービス(NSS)計画の下で活用することを決定した。同時にBC州政府は、製材所や伐採労働者の不足を理由に、従来の日系カナダ人の国有材用地での就労禁止措置をひっくり返した。そして、日系カナダ人独身男性のBC州での就労を認めるという発表をした。日系カナダ人たちは集会を開き、政治家たちに「なぜ我々は市民権に関係なく投獄され、就労を禁じられていたのに、今は市民とみなされるのか?BC州では労働力が不足しているのに、なぜ我々は家族と別れて東部へ行かなければならなかったのか?」と質問した。日系カナダ人で、東へ行くように説得されたのは40人足らずだった。翌年、連邦政府はNSSの強制的な側面を撤廃し、キャンプに求人が出された。そして、カナダ東部への再定住を支援するため、労働省はウィニペグ、フォート・ウィリアム、トロント、モントリオールに事務所を設置した。

収容所・抑留所の状況に関する苦情は、オタワ、国際赤十字、スペイン領事館に寄せられた。1943年12月21日、ミッチェル労働大臣は調査のための王立委員会の設置を発表した。ミッチェル労働大臣が、カナダ市民から、連邦政府の日系カナダ人に対する規定が “寛大すぎる “という苦情を受けたとコメントしたことが注目された。ミッチェルは話をそらそうとしたのだ。また、王立委員会に対し、収容所は一時的な移転であり、恒久的なセンターではないことを考慮するように指示した。

なぜスペイン領事館が関与しているのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。戦時中に一世(第一世代の入植者)は、連合国の政策によりスペイン政府の保護下にあった。一世はカナダ生まれでもなく、帰化手続きによって合法的に市民権を取得することもできなかったので、NSSの対象外であった。

日系カナダ人は、例えカナダ東部に移住しても、人種差別を逃れることはできなかった。1943年12月に発表されたギャラップ世論調査によると、54%のカナダ人がすべての日系カナダ人を日本に「送り返す」ことを支持していた。人種差別主義者の政治家などが、カナダ市民の日系カナダ人に対する恐怖を煽り、ステレオタイプ化を強化したことが、根強い差別と敵意を助長した。日系カナダ人はカナダ市民としてではなく、カナダ人の敵とみなされたのである。

 

1944年

アメリカでは1944年12月17日、日系アメリカ人の排斥命令を取り消し、すべての強制収容所を1年以内に閉鎖する決定が下された。日系アメリカ人は1945年1月2日に故郷に戻ることができた。この決定は、アメリカの最高裁判所が、戦争移転局(アメリカ版ブリティッシュ・コロンビア州保安委員会)には “忠誠を誓っている “市民を拘束する権限はないという判決を下した後に下された。カリフォルニア州の元州職員であるミツエ・エンドウは日系アメリカ人としての公民権が侵害されているとして、公民権弁護士ジェームズ・パーセルに依頼して訴訟を起こした。この判決は、ミツエや他の日系アメリカ人が移動の自由を否定されないことを意味した。

しかし、カナダ政府は日系カナダ人の移動の自由を否定し、日系カナダ人の強制送還を推し進めた。

1940年以来、連邦警察は日系カナダ人を監視しており、日系カナダ人は「法を守る」市民であると、連邦政府に報告していた。軍の指導者たちもまた、日系カナダ人に対して何の措置も必要ないと政府に伝えていた。8月、CCF(協同組合連邦連盟、新民主党の前身)に連邦政府下院で質問を受けたキング首相は、日系カナダ人による妨害行為や不誠実な行為はなかったと認めた。

日系カナダ人がカナダ市民としての権利を獲得したのは、第二次世界大戦が終結してから4年後の1949年のことだった。

 

1945年

日系カナダ人委員会は、カナダ全土で強制送還に反対する請願を組織した。スローキャン地区委員会は、日本への強制送還を望まない2,010人の日系カナダ人が署名した嘆願書を作成した。彼らは請願書をキング首相に送った。偶然にも、この請願書がオタワで受理されたのは、1945年12月15日であった。この日、戦争措置法に基づき、政府に日系カナダ人を強制送還する権限を与える内閣令が連邦政府下院で可決されたのである。

 

1946年

強制送還に対する法廷闘争が続いた。

1946年12月2日、英国枢密院の裁定が下され、カナダ政府は戦争措置法の下で望むことをする権限を持っていたため、強制送還命令は有効であるとされた。最高裁の日系カナダ人に対する不利な判決から9ヶ月以上経っていた。しかし、裁判の結果、内閣は強制送還の一時停止を余儀なくされた。内閣は次のステップを検討した。4,000人の日系カナダ人を日本に強制送還するためには、最高裁が認めた日系カナダ人の種類だけを強制送還するように変更しなければならなかった。結局、4,000人あまりの日系カナダ人が12月末までに、日本に強制送還されたが、1947年1月に、キング首相は、これ以上の日系カナダ人に日本への強制送還命令を廃止した。

 

1947年

1947128 に、王立日系カナダ人資産補償委員会委員長バード判事の前に最初に姿を現したのは、イト・イマダ夫人であった。、彼女はフレーザーバレーの農場の連邦政府による強制売却で、損失を被ったと主張した。王立委員会は7月に設置されたが、その役割は「敵国財産管理人が日系カナダ人資産の管理・売却にあたって、合理的な注意を怠った」場合のみ損失を調査することに限定されていた。

各請求者は厳しい尋問を受けた。バード判事と政府弁護団は、状況も含め、物件についての詳細を日系カナダ人に詰問した。日系カナダ人は、資産に関するすべての情報を提供しても、申請者全員が補償を受けられるわけではなかった。すべての種類の損失にたいする賠償請求が考慮されたわけではなく、金銭的損失のみが考慮された。

 

主要な情報源:

ケン・アダチ、「存在しなかった敵」の日本語訳は次をご覧ください。https://ejca.org/resources/30_WEBSITE_CONTENT/2020/HistoryProject/Ken%20Adachi%20-%20Enemy.pdf

 

アン・スナハラ、「人種主義の政治」の日本語訳は次をご覧ください。
https://japanesecanadianhistory.ca/ja/

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